01/07/05

「北の零年」と蜂須賀家の名誉1

ところで、12/18/04「流刑(仙台伊達家の場合2・・・[北の零年])千葉の歴史11(勤勉革命の素通りと「野菊のごとき君なりき」)」のコラムで映画「北の零年」は伊達家の移住をイメージしたのかもしれないと書きましたが、その後の事前広告によると、阿波蜂須賀家の筆頭家老稲田家、(淡路島で2〜3万石の領有)の移住の状況を描いたものと分りました。
藩は違いましたが、置かれた状況は同じで、主君を除いて全員「士分を剥奪された」点、陪臣であった点が同じです。
「士農工商の厳格な区別があったのか?」と言う疑問の始まりは、12/20/04「千葉の歴史13(千葉県人とは1)紀州移民1(開発者の身分は)?」のコラムで、銚子河港を開いた人物を私が勝手な思いつきで蜂須賀小六に擬したことから始ったものですから、ここで蜂須賀家について少し触れておくのは偶然ですが、縁のないことではありません。
阿波蜂須賀家は、明治維新で直ちに官軍に付かず、日寄ったために維新後冷遇され、蜂須賀家の重臣稲田家家臣団はそのあおりを食ったのですから、賊軍伊達家の重臣であった伊達邦成家と立場が似ています。
明治政府の嫌がらせで、淡路島は徳島藩の領土だったのに阿波・徳島県から切り離されて兵庫県に編入されてしまっていますが、鳴門へ行って見ると今でも徳島の1部のような一体感がある印象です。(本州の1部ではなく、四国の1部なのです)
・・・ただし、私はこれまで家族旅行を含めて鳴門へは4回行ってますが、本四架橋の出来る前と出来た直後が最後ですから、今では兵庫県との一体感が強くなっているかもしれませんが・・・・。
明治政府は、それだけではなく、陰陽に嫌がらせしたものですから、これに迎合する文筆家や講談師が、ことさらに蜂須賀家の先祖を「野盗もどき」の講談に仕立て上げ揶揄しましたので、蜂須賀候が出歩くたびに路傍から野次が飛ぶ始末で、赤くなったり青くなったりして、怒っていたと言われています。
いつも言うことですが、報道陣というか物書きが政府の意を受けて書きますと、国民は簡単にそのように思い込んでしまいますから、国民を洗脳して行く怖い存在です。
野盗や追いはぎでは継続的収入になりませんので、家屋敷を構え他人数の家来を恒常的に養っていくことは、いつの世でも出来ないものであることは、11/11/04「警察の必要性・・・日米比較2(映画7人の侍の下地)」でも書きました。
蜂須賀家は、川並衆とも言われるとおり、農業専業の旧式武装集団(戦国大名)とは異なり、既存枠組みからはみ出して、流通その他新機軸(傭兵集団としての機能もあったか?)でやっていただけのことでしょう。



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