01/06/05
兵農分離7(開拓の成否・・・会津と伊達の違い)兼業農家の健全さ
会津藩士は、転勤族というだけでなく、大藩であった為に大規模城下町を形成し、200年間も都市住民として生活しているうちに、武士から足軽にいたるまで軟弱に堕してしまった可能性があるのです。
彼らが、道場での剣道の練習くらいしかしたことのない(真面目人間でも週1〜2回くらいでしょう)都市住民・純粋武士層であったとすれば、会津藩士による農地開拓目的の移住は、都市住民人が農地開拓に従事した点でも、仙台・伊達邦茂家の移住に比べて厳しいものがあった。と思われます。
会津が越後高田藩のお預けから解放されて明治2年創設した斗南藩は、まもなく明治4年廃藩置県で斗南県となると、県知事となった松平容保自身が東京へ行ってしまいました。
ついで弘前県などと合併で青森県となると、地元に愛着のない藩士たちはちりじりに脱出してしまったと言われます。
勿論、志を持って牧場経営で頑張った広沢安任など、骨のあるのがいましたが、大方の動きの説明です。
会津の開拓地である斗南藩(青森県)は、こうして悲惨な経験談ばかりが伝わり、伊達氏のように現地に根付くことが出来ず、地名も残せず、歴史上の出来事としてしか、記憶に残らないで消滅してしまいそうです。
会津藩士による開拓実行は、都会人である脆弱さだけでなく「農業経験のない集団が、開拓に挑戦する」と言う無茶をすれば、無茶な結果になることが証明されたものでしょう。
兼業農家経験の有無を比較するために、会津と伊達両家の開拓の成否の比較をしてきましたが、これまで書いて来たように、地方では藩士が兼業農家をしていたのは普通だった筈です。
©2002,
2003, 2004, 2005, 2006 稲垣法律事務所 ©弁護士 稲垣総一郎
Design
/ Maintained by Pear Computing LLC