01/05/05
兵農分離7(転勤族の心4)
そこに落ち着くつもりでいたのに、20年しかいなかった人と、転勤族のサラリーマン兵士が、すぐ引っ越すつもりだったのに、100年も転勤がなくて居続けただけの場合を比較しますと、後者は結果的に長かっただけでしかなく、心構えが違いますので地元密着度が低かった筈です。
よそから来ても「骨を埋める」つもりの場合は、息子や娘の婚姻を通じて、地元との同化が進み、そのうち半農半士になって行きますが、いつ何時他国へ転出するか分らないとなれば、地元民との同化は滅多にせず、(地元民もうっかり嫁にやれなかったでしょう)一緒にきた転勤族同士の婚姻が中心となります。
大多喜藩のように小規模の場合、転勤族だけの交際とは行かないと思うでしょうが、関東1円では、周りが小規模な転勤族ばかりですから、隣接諸藩士との交際で十分ですから地元民と交流せずとも、やって行けたのです。
02/29/04「足高の制3と与力」以下の連載で新井白石の経歴(千葉県の2〜3万石の久留里藩士)を紹介しましたが、彼ら、小藩の武士は田舎者ではなく、江戸であちこち転職を繰り返していたのです。
これに対し外様大名に囲まれていた、遠隔地の長岡藩みたいな小さな藩では、他領から一緒に来た人数が少ないうえに簡単に江戸に出られないのと、回りが外様大名ばかりで警戒感があって隣接武家同士の交流が少なかったのです。(隣接藩士と婚姻するとなれば、それこそ幕府の許可が要ったでしょう)
こうして長くいれば、必然的に地元民との混血同化が進み、地元密着精神になったと思いますが、会津のように大藩で、藩士とその家族だけでも3万人近くに上るとなれば、外来の駐在員同士の交際や婚姻で間に合うことになり、地元同化が進まなかったでしょう。
昨年の6月に仙台へ旅行したときに、(仙台旅行については07/02/04「旅行・・・仙台1」以下で連載しました。)ホテルのバスに乗り合わせた女性のグループは、仙台駐在の転勤族の奥さんグループとのことで、(そういうグループが組織化されているのにも驚きました・・・・・・。)そのうちの一人(の夫)が転勤になったので、送別会をそのホテルでするのだということでした。
ニューヨーク、シンガポールその他、海外駐在員も同じでしょうが、こうして、転勤族は転勤族同士で付き合うのが普通で、同質民族と言われる現在の国内でさえ、現地に同化する人は滅多にいないなのです。
会津藩士は、せっかく長年月会津に居たのに、そのうち転出すると言う気構えでいたのと、藩主が幕府要人(保科は幕閣の第1人者であったことは、02/12/04「水戸(徳川)光圀は副将軍?1(水戸学の必然性)」のコラムで紹介しました。)と言うことで、家来筋もしょっちゅう江戸と行き来があったために地元民を軽視していたでしょう。
せっかく仙台勤務となっても、1ヶ月の半分は東京主張しているサラリーマンみたいです。
こうして会津松平家は何年経っても地元密着せず、かえって地元から遊離したまま都会人として長年月を送ってしまったのです。
戊辰戦争での会津の戦い振りを平成16年12月29日・・2「兵農分離5(白虎隊と長岡城攻防戦)」のコラムで長岡藩兵と比較して紹介しましたが、会津藩武士は領民から遊離していたために(会津の領民は、新政府軍側についていたとすら言われてます。)しぶとく戦いきれなかったのです。
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