01/05/05

兵農分離6(転勤族の心3)大多喜城主の変遷2

年頭のコラムを終えて、昨年末のコラムの続きです。
里見氏の上総領が秀吉に没収されたあと、これが北條氏の遺領とまとめて、徳川氏の領地になりました。
徳川としては、江戸に近い安房の強豪里見氏に対する牽制として、(特に里見は旧領を取り返したいのは人情ですから油断できません)大多喜城には徳川の4天王といわれた、本多忠勝(娘が家康の養女として真田信幸に嫁いでいることでも有名です)が10万石で入城しました。
徳川としては関が原の恩賞として加増するにしても、武力的に強くなれないように旧領地を復活させず、鹿島と言う飛び地を加増したのです。
この後、里見氏が大久保事件に連座して改易されたことは、12/17/04「千葉の歴史10(千葉県人と勤勉革命の素通り6)(仙台伊達家の場合1)」で紹介しましたが、里見がいなくなって房総半島は全部徳川家の領地になったので、防衛目的の大きな藩が不要になりました。
以後、数万石前後の小さな藩となって城主は阿部、青山、久世、稲垣(調べていませんが、私の先祖とは関係がないと思います。)植村と交代し、元禄16(1703)年に松平正久が城主となるまで、約100年間に7家が入れ替わっているのです。(1家平均わずかに15年の駐在というところです)
12/09/03「千葉の歴史7(千葉県人と海洋史観3・・勤勉革命)」のコラムで、天領や譜代大名家では、転勤が多いために生産増へ意欲が沸き難いと書きましたが、新田開拓や、川の付け替え、干拓、新しい特産品の開発は、効果が現れるのが何十年後ですから、これでは投資するだけ損となって、殖産興業の意欲がわかないでしょう。
殖産興業どころか、自分の家1軒建てるのにも、50年も持つような本建築をためらったでしょうから、他は、推して知るべしというところです。
大多喜城の松平家は以後九代続いていますが、徳川譜代大名とその家臣団は、すぐにも国替えがあるものという意識で100年も来てしまったのですから、松平が転封で来た1700年代には、引越しは古来からの慣習みたいに刷り込まれていたでしょうし、まさかその後何百年もいるとは思わずに過ぎていったのでしょう。。



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