01/31/04

吉宗以降の幕府 2

娯楽物は国民一般に与える影響がものすごく大きいのですが、娯楽もので見ましても、
真田軍記ものなどがもてはやされ、太閤記など、豊臣秀吉の出世物語がもてはやされるのに対し、徳川家康は、悪賢い狸親父として描かれるのが普通でした。
徳川家康が主役になって描かれるようになったのは、戦後の昭和30年代から40年ころにかけて山岡荘八氏が発表した一連の「徳川家康」が最初でしょう。
豊臣政権滅亡期の物語りも、多くは豊臣家関連の人物を主人公にした、同情を誘う展開が多かったものです。
逆に徳川幕府滅亡期は、滅び行くものに尽くした新撰組などが悪役で、逃げ回っていた竜馬や、月形半平太(中岡をモデルにしたものだったかな?)、桂小五郎その他はいつも主役でした。
人殺しだから嫌われるのかと言うと、反幕側では、人切り以蔵(岡田)や、中村半二郎、益満休之助などは、同じ殺人者でも主役になるのです
幕府側の沖田壮司などが脚光を浴びるようになるまでには、家康よりももっと時間がかかりました。
昭和50〜60年ごろですかね。
ところで、上記徳川関係が脚光を浴びるころまでは、豊臣政権批判の文献が少なかったのは、明治政権が江戸時代を悪く言う為に少ないのだろうと思っている方が多いと思います。
実はそうではなくて、明治以前の吉宗の時代から、既に豊臣政権は、批判すべき前時代ではなくなっていたのです。
吉宗以降の前時代とは、家光系の徳川家のことだったのです。
吉宗以降の将軍家は、最後の慶喜(水戸家から一ツ橋家への養子でした。)を除いて、紀州徳川家出身の吉宗の系列がなっていたのです。(松平定信は吉宗の孫です)
仮名手本忠臣蔵は、幕政にたいする実質批判であるのが明らかなのに、発禁処分にならず、(松平定信は、気に入らない出版はかなり発禁処分・手鎖にしています)忠臣蔵がずっと上演できたのは、前政権の失政と言う意識があったからでしょう。




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