01/30/04

江戸時代前期と後期(吉宗前と吉宗以降の2系統)1

忠臣蔵の話に戻りますと、吉良家は襲われた被害者でしかないのに、この騒ぎで嫡子(といっても息子は上杉に養子に出していたのでその子・孫です)がいて、せっかく命からがら逃げ出して無事だったのに、まともに戦わなかった廉(かど)か何かの言いがかりで処罰されています。
このころの政治は、「生類憐れみの令」がバランスが悪かっただけでなく、その他の政治一般の統治能力としても、かなりレベルが低かったように思えますがどうでしょうか。
綱吉の次は、真山青果作の「元禄忠臣蔵」の歌舞伎に一つの場として出てくる甲府宰相綱豊が6代将軍家宣になり、その子が3歳そこらで7代将軍家継になると、新井白石の時代となります。
新井白石時代(正徳の治)から、既に綱吉政治がおおっぴらに批判されてるくらいですし、まして吉宗以降は、前々回の毒殺の流行の話で紹介しましたように、将軍家の系列が別系統になってしまったことから、まったく遠慮なく批判されています。
前政権と言っても、この時代になると豊臣政権の批判では遠すぎますが、自分の直前政権の批判の方が自分の立場を強めることになるからです。 
明治政府とその引継ぎである現代は(昭和50年ころまで)、その前の織豊時代を賛美し、江戸時代は暗黒、或いは停滞みたいな解説が多かったものです。
ヨーロッパ史では、絶対王政以前を暗黒の中世と表現されているのを幸い、「我が国の明治政府は、西洋の絶対王政にあたるから、その前の江戸時代をヨーロッパ中世と同視できる。」
その結果、江戸時代をヨーロッパ中世と同じく暗黒・停滞と評価するのは、明治以降の歴史学者にとっては、明治政権を「よいしょ」するだけですから楽なことだったでしょう。
ただし、歴史学が発達してきた結果、何時のころからか、西洋とは違って我が国には、中世の後に近世があるのではないかという考えが広まりました。
要するに何でも「横文字を縦にすれば博士」と言う時代が終わったのです。
私が学校で習ったころは、江戸時代は中世だったようですが、こうしていつのまにか中世ではなく近世になったと言う訳です。
明治政権の影響からようやく脱皮したのか、江戸時代の見直しの文献が一般に出始めたのは、ここ10年くらいのものではないでしょうか。
梅棹忠夫氏の文明の生態史観が発表されたのは1956年ころで、これによって我が国は遊牧民族の圧力を受けることなく、順調に発展してきたことが説かれました。
即ち明治維新は突如としてなったものではなく、順次の発展によるものとなったのです。
これを受けた川勝平太氏の海洋史観(遊牧民の圧力がない代わり海洋からの圧力があったと言う意見です。)が、江戸時代に勤勉化していたのが明治維新政府の原動力と言う骨格を言い始めたのは1992年ころだったように思います。
そのころから時を同じくして、江戸時代の工芸のすばらしさその他の研究発表が相次いだようになりました。
何年かの調査研究を経て論文になるのでしょうから、江戸時代はすばらしかったのではないかと思う人はもっと前からいたのは当然ですし、それだけの裾野が広がっていたのでしょう。
ただ、私のような門外漢が分るように一般に流布されるようになったのは、ここ10年程度のことでしょう。




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