01/28/04

江戸時代の相続制度 4(武家)(毒殺の流行)

生類憐みの令は、これを悪法と言うべきか、今風の動物保護基本法の先駆者として賞賛すべきか俄かに断定は出来ませんが、下々には迷惑な法であったことは間違いないのではないでしょうか?
多分このままでは「幕府は瓦解するかもしれない」と言う危機感から、秀忠、家光(かなりレベルが低かったのは周知のとおりです。)以来の血統を根絶やしにして、家康の曾孫にあたる吉宗が担ぎ出された可能性があります。
5代将軍と8代吉宗の間には、3世代も有るようですが、実は綱吉の死亡が1709年で、吉宗の就任が1716年ですから僅か7年しかないのです。(この間に2人の将軍が病死です)
話しは、かなりずれますが、新井白石の「正徳の治」と言っても、こうしてみると僅か6〜7年のことなのですが、彼は立派な本(折りたく柴の記)を書いているために有名になっているのです。
吉宗が紀州藩主になるについても、彼は4男だったのに、何故か2,3男が他家に養子に出され吉宗だけが残ったのです。
長男の当主は江戸詰になる期間があるので、国許の家臣団は地元にいる吉宗の息がかかったものばかりになります。
当主側近は、国許に帰ると毒殺の危険があるのでかなり警戒していたようですが、何かの行事を理由に国許に呼び寄せられ、仕方なしに国許に帰った途端に急死(多分毒殺)です。(別の本では、3男も急死したと読んだこともあります)
こうして、紀州藩主の座は回ってくるべくもない4男の吉宗に回ってきたものです。
将軍職も同じように、6代将軍家宣の子は次々と死に、1人だけ残って3歳で将軍になった7代将軍家継も、内親王と婚姻すると決まった途端に急死したのです。
将軍家の血脈が途絶えた後に、次順位承継者となるべき尾張家の当主もその子も次々と急死してしまいました。
吉宗のライバルとして有名な宗春も先順位者が次々急死したので、尾張家の当主になれたのであって、もともとの当主ではありません。
こうしてものすごい数の将軍後継者が短期間に皆死んでしまって、紀州家のしかも4男吉宗に回ってきたものですが、関係者がいっせいに次から次へと偶然に急死ばかりあったものとは、到底考えられません。
将軍は誰でもよいと言う余裕がなく、実力者でなければどうにもならないところまで幕府は追い詰められていたのです。
持ち回りシステムを廃止してしまって3歳でも4歳でも、或いはどんなに無能でも、後を継ぐ仕組み・相続制度がかっちり完成してしまうと、組織は硬直してしまい維持出来ません。
鎌倉幕府みたいに、将軍家を完全な飾りにして実権を誰かが実質的に握ってしまうなら別ですが、そこまで進んでいないときには、危機に臨んだ組織が有能な人に指導者になって貰う為には、毒殺しか生き残る手段が残されていなかったのです。
戦国時代には、組織を守る為の謀反と言う形の下克上がありましたが、それでは余計内政が乱れますので、毒殺は一族内の合理的な政権交代方法だったと言う見方も出来ます。
江戸時代には、毒殺が流行った所以です。
幕末の危機時には、大阪へ出向いた途端に14代将軍家茂があっさり毒殺されて、一橋慶喜が15代将軍になったのも公然の秘密と言うところでしょうし、孝明天皇の急死も、コチコチの佐幕論者では、やり難いので毒殺されたと言われています。
こうして家臣団の大方の総意や、時代精神に合わない君主またはその相続人予備軍は、ていよく病死させられていたのです。
伊達やその他のお家騒動は、これに失敗した場合のことで、成功してしまえば、被害者側の側近は,口惜しくてもどこにも訴え出ることが出来ません。
そんなことをすれば、そのお家断絶の口実にされてしまうので、(訴えた自分が失業してしまいます。)現在の企業内労組が、違法行為を告発しないのと同じでした。
勿論幕府や天皇の場合は、上位者がいないので訴えようもありません。
成功すれば、終わりです。
3代将軍の決定にあたっては、秀忠夫婦が家光が駄目なので弟の国松・・・後の駿河大納言忠長を相続させようとしていたので、家光の乳母春日の局が家康に直訴したのがよく知られています。
能力で決める仕組みですと、それぞれの擁立者が争うことになると思ったのか、家康が能力の有無にかかわらない長子相続を裁定した結果家光(当時竹千代)が将軍になりました。
こうして幕府の相続制度は、能力の有無に拘わらず、年長順と家康が決めたのですが、そうなると適任でないときに困ってしまいます。
そこで便利な方法として毒殺が流行るようになったのですが、家康もそういう時代が来るとは夢にも思わなかったでしょう。
長子相続制の行き着く先が、毒殺の大流行とは皮肉なものですね。
ちなみに、時を同じくして西洋でも大いに毒殺が流行りましたよ。
それぞれの支持者が合戦していた信長の時代よりは、(応仁の乱もこれがきっかけでした)毒殺で勝負をつけるのは合理的な方法(省エネ)のようですが、そうなればなったで問題が生じます。
将軍家慶の子供27人中26人が次々病死(毒殺)した場合を考えると、名君待望論によるのではなく、単に大奥の各生母たちによる毒殺の打ち合いで、最後に家定1人残っただけと言うのですから、何ともすさまじいことです。
このように、毒殺による相続人選定は、隠密裏に行われる為に必ずしも合理的ではない方向へ発展する嫌いがあります。
「毒殺は相続の一形態」と言えないことはないまで、学者が公認しないわけです。




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