01/26/04
喧嘩両成敗法と生類憐れみ令1(忠臣蔵2)
中世末期に到達した権力が、やっと道理と肩を並べた象徴的表現が、平成16年1月20日のコラムで紹介した「喧嘩両成敗法」であるとすれば、道理に追いつき追い越した法が、道理に遠慮するどころか道理に積極的に反していても強制できるところまで行き着いた究極の法が「生類憐れみ令」かもしれません。
「悪法も法也」を地で行ったものです。
喧嘩両成敗法は、道理を究めないで処罰するとはいえ、ともかく、どちらの味方もしない、公平な裁きであり、それなりに平和主義・非暴力主義の理屈は通っていました。
ちなみに、浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたときの将軍は、犬公方と言われる5代将軍綱吉ですし、側用人は館林時代に男色で出世したといわれる柳澤吉保でした。
綱吉の始めた「生類憐れみの令」と呼ばれる一連の犬その他の鳥獣魚類過保護政策に至っては、人間がそのために処罰されるのですから、政治に必要なバランス、道理の裏づけが全くなかったと言えるでしょう。
それでも権力の力で、後に紹介するように綱吉の死ぬまでの23年間ほどの長きに亘って強制できたのです。
「令」とはいうものの、恣意的(内容ばかりか後に紹介するように思いつき的に次々と何十回も発令しているの)ですから、「法」と恣意的権力行使の境目にあるものでした。
ここまで来ていた綱吉が、みづから喧嘩両成敗法を踏みにじるには、殆ど抵抗がなかったのでしょう。
権力が「法」を無視できるところに近づいていたのです。
「朕は国家也」・朕は法也の日本版です。
浅野家の再興が認められれば、赤穂浪士の討ち入り・あだ討ちはなかったのですから、(この点は誰も否定できない事実と言えるでしょう。)赤穂浪士があだ討ちを目的に行動していたとする解釈は、無理があります。
このように解釈しますと、赤穂浪士の討ち入りは、「あだ討ちをして、本懐を遂げた」としてすり替えられていますが、幕府の不当裁決に対する抗議のパフォーマンスとして吉良に向けたものでしかないことになります。
もちろん当時の世間では、その意味がわかっていますので、幕府が権力に任せて理不尽に(道理を無視するということは理不尽と同義でしょう)繰り出す法に押さえ込まれて、不満をためている諸大名や庶民は喝采します。
長恨歌のコラムでも説明しましたが、みんなが知っていることを前提に、真実と違った筋の物語が作られるのです。
単なるあだ討ちだけのテーマでは、何百年にわたる大入り満員・ロングランにはなリません。
今でも忠臣蔵が受けているのは、何時の時代にも国民にそういった不満要素があるからでしょう。
幕府としては、幕府に対する批判行動をしたと言う理由で処罰すると、幕府に対する公然とした批判の存在を認めることになってしまいます。
そこで、一方では吉良個人の人格攻撃を流布して、個人間の私的紛争にすりかえて忠臣蔵と言う「義挙」にして、(綱吉は儒教に熱心でした)ごまかして来たのです。
現在の演出家も、そういうごまかしに乗っているのかも知れません。
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