01/25/04

江戸時代の相続制度 3(武家)(忠臣蔵の新解釈?)

喧嘩両成敗法の説明から話が横に行きましたが、吉良には御咎めがなくて、浅野だけ切腹と言うのは、片手落ちの成敗としての同情論が生まれました。
これは前記「非理法権天」の法理から言えば、法も権力には敵わない・すなわち徳川幕府は、終身雇用に縛られた武士ばかりで、何も抵抗できないことをいいことに、既にきまっている「法」でさえ、権力の力で破れるという強い立場になっていたのです。
幕府は、各種諸法度や個別的なお触れ書きで禁止事項を定めてきましたが、体系的な刑罰法典を作ったのは、以前に紹介したとおり吉宗の「公事方お定め書き」が最初ですから、「松の廊下の刃傷事件」当時は、中世からの喧嘩両成敗ルールが通用していたのです。
しかも、浅野本家は言うまでもなく豊臣秀吉の妻、ネネの実家ですし、赤穂藩はその浅野家の支藩であって、1月19日のコラムで書きましたように、徳川家から領土を貰ったサラリーマン大名ではないのです。
そうした立場から言っても、跡取がいないと言っても実の弟がいるのに、そっくり没収と言うのは行き過ぎではないかという論理もありました。
鎌倉時代の法制度で言えば、これが法に優先する道理だったでしょう。(外様大名連合としては当然陰で応援する立場です。)
要するに徳川幕府は、非常に強い立場を根拠に、徳川家から貰った領土ではないのに、外様大名にまで、道理に反する相続、養子、婚姻の法を強制して、(法が道理に優先する)跡目相続を困難にして、どしどしお家断絶に追い込んでいったのです。
これからは道理よりも「法」が大事だといいながら、他方では、権力者の都合で喧嘩両成敗法と言う「法」でも無視してよいという権力剥き出しの政策を取ったのが刃傷事件の裁決でした。
ここまで来ると、外様大名だけでなく、幕府に服従しなければならない大多数の武士にとっても、あまりありがたい政治では有りません。
天命が革まる・即ち権力が覆る前段階になったのです。
大石内蔵助らとしては、こうした世論の動向をバックにして、「後継ぎが決まっていなかったからたまたまお家断絶になっただけ」と言う幕府の論理ならば、(その屁理屈に便乗して)後に紹介する上杉家の復活と同様に浅野家の再興は、(運動次第で)許されるのではないかと言う一縷の望みを抱いたのです。(相続法制から見た私の独自解釈ですが・・・・)
これが最終的に駄目となったときに、「・・・う〜ん、もう許せない・・上杉、即ち吉良が良くて何故うちが許可されないんだ・・・幕府の政治は道理に反している」と討ち入りの決断となるわけで、あだ討ちが本懐ではありません。
有史始まって以来認められていた道理による政治が、幕府権力の確立によって幕府が勝手に作った「法」によって無視され、さらには、権力者は「法」でさえ無視してよいとなれば、一種の抵抗勢力が生まれて来るのは必然でしょう。
西洋の絶対主義国家では、ルイ14世の「朕は国家也」と言う所まで行きましたが、ルイ16世が革命の洗礼を受けてしまいました。
ルイ16世は、お人よしでしかないのは周知のとおりですから、革命の種は、ルイ14世が播いていたと言えるのです。




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