01/24/04
中世から近世へ(蒙古襲来と北条家)4
以前にも書きましたが、私の主張は鎌倉幕府の権力は、蒙古襲来によって却って御家人に対する立場を強くして行ったというものですが、(平成15年5月29日の「男尊女卑の思想の崩壊」参照)前回のコラムで紹介した法令の強化の進行からも窺えるところです。
建武の中興の騒乱は、幕府が弱くなったから起こったのではなく、むしろ強くなりすぎた北条得宗家の権力に対する抵抗から起きたものだと思います。
それまでは、北条家が他の勢力と競う為にも、幕府権力は北条一族の持ち回り、合議制であったのですが、蒙古襲来時の執権北条時宗の系統・嫡流だけで(即ち得宗家)その後は権力を牛耳るようになったことでも窺えます。(外部に対する一族の結束が不要になったのです)
私が習った歴史では、蒙古襲来・文永・弘安の役では、御家人らがせっかく命がけで戦ったのに蒙古を追い払っただけで、新規領土の獲得が出来なかった。
そのため、功労の有った者が十分な恩賞を貰えなかったのが原因で、武士の不満が募ったのが、幕府弱体化の原因であると言うものでした。
念のため私の娘に聞いてみると、私よりも30年余り後に娘も同じように習ったそうです。
しかし、弘安の役では、北条時宗の弟を長門の国の守護にするなど、関東からも、北条一門など有力者を要所要所の守護に任命して張り付けるなどしていましたが、手元で実際に働いたのは、地元豪族である九州沿岸の御家人が中心になって戦ったものです。(竹崎季長や松浦党の活躍する蒙古襲来絵詞を想起してください)
ところが、太平記で物語られる建武の中興の戦乱の口火を切ったのは、悪党と呼ばれる楠木正成などの河内の豪族ですし、蒙古軍と戦った九州の御家人が中心でないどころか殆ど参加すらしていません。
九州の武士団が脚光を浴びるのは、足利高氏が(このころは尊氏とはいいません)都で負けて、九州に落ちて行ったときにどちらにつくかなどが問題になったときだけです。
その後も畿内での戦いが中心だったからこそ、大楠公や小楠公の話が残るのです。
要するに蒙古襲来とは関係のなかった悪党と呼ばれる、新興産業担い手(馬借など)が中心に起こした騒乱が発端でしたし、彼らが最後まで頑張ったのです。
こうしてみると、恩賞をもらえない不満もなかったとは言えませんが、むしろそれは、バックグラウンドとしてあった程度かもしれないのです。
私の独断的思い付きでは、幕府内では北条家への権力集中が完成したばかりか、北条家内でも更に、北条得宗家への権力一極化が進みすぎて、(さらに進んで身内人という得宗家の家老的な人が実権を握ってしまう状態になっていましたが、細かくなり過ぎるのでその説明は省略します)足利氏などの伝統的大族が幕府内で不満を蓄積していたのです。
そこへ蒙古襲来を機縁として、これまで幕府の統制外にあった御家人以外の武士団にまで幕府が指揮命令権を獲得したことから、御家人と非御家人の差別化による支配が困難になるなど全国的(各立場ごとに)不満があったところに、流通業者である新興階級の反乱を起こしたので、これをきっかけに傷口が広がっただけと思います。
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