01/14/04
長恨歌2
話がまたそれましたので、玄宗皇帝と楊貴妃の関係・長恨歌に戻りましょう。
如何に皇帝とはいえ、息子の嫁を横取りするのでは儒教道徳上あまりにもまずいので、楊貴妃を迎えるに当たって、一度道観(道教の寺)に入れて女冠(道教の尼)としました。
そこで「太真」という名を与える手続きを踏んで、日本流で言えば「みそぎ」をし、生まれ変わらせたのです。
当時は、みんながこうした経緯を知っていたことを前提にしながらも、白楽天は、楊貴妃は、「養われて深閨にあったので誰も知らなかった」・・・・「ところが天性の麗質がおのずから発露して、一朝玄宗皇帝に見出され、君王の傍らに在ることになったと書き出します。
これは文学だからうそが許されるとか、文学的昇華と言う面もあるでしょうが、誰でも知っていることだからあえて、皮肉をこめて書いたと読むのが正しいのかも知れません。
こうして楊貴妃は寵愛を受け、
七月七日長生殿 夜半無人私語時
在天願作比翼鳥 在地願為連理枝
七夕の夜、その名も長生きという殿舎で、夜半人なく私語せしときに、(侍女もいない2人きりのときに交わした言葉に、)「天に在りては比翼の鳥(天界にいったら、羽のつながった鳥になって )地にありては連理の枝(地上にもどったら、枝のつながった木になって)」何世代生き返ってもいっしょにいようね。と言う誓いまでしました。
ところが、ほどなく安録山の乱が勃発し、
九重城闕煙塵生 千乘萬騎西南行
九重(ここのえ)の城闕に煙塵生じ あわてて 千乘萬騎で西南即ち蜀をさして落ちて行くことになります。
天子のおわすところを、九重(ここのえ)の雲の上と昔から表現します (雲上人の語源です) ので、九重の城闕を日本流にいえば、御所と言うよりも宮城(戦後は皇居と言います)がふさわしいでしょう。
わが国の用例では、
「いにしえの ならのみやこのやえざくら けふここのえに匂いぬるかな」
という伊勢の大夫(紫式部の代作?)の歌もこの言いまわしを踏んでいるのです。
これは、大和の国から、八重桜が届けられたときに、受け取ると即座に「(昨日伐って来たばかりの)八重桜が、今日、九重(ここのえ=ここ)の宮廷で爛漫と咲き誇り、匂いが立ち籠めている」と言う機転(数字の語呂あわせ)と絵画的表現でお礼の歌としたもので、百人一首の中でも有名な方でしょう。
会津の白虎隊が、煙を見て、落城と勘違いして切腹してしまったように「城闕に煙塵が生じ」れば、言うまでもなく落城の表現です。
「千乘万騎」と言えば、すごい大軍のようですが、実は表現方法の問題で、昔から天子の軍の車両数は万乗と決められていた故事によるのです。(ちなみに諸侯は千乗でした)
江戸時代の大名旗本などの供揃えの数は、格式によって決まっていましたが、同じ考え方です。
経費節減の為に次々と解雇していましたので、行列が必要になるといきなりアルバイトを雇って、格好つけていたようですよ。(15年5月29日のコラムで、天一坊事件に関して触れました。
「万乗」にもどりますと、、戦前の日本でも、天皇のことを、大げさに言うときには「一天万乗の君」と表現していました。
そこで、「千乘萬騎」と言えば、正式な行軍編成が出来ずに、そそくさと脱出した意味を表すことになります。(と私は勝手に思っています。)
都落ちする途中、西の方都門を出づること百餘里、馬嵬坡(ばかいは)にいたって
六軍不発無奈何 宛轉蛾眉馬前死
六軍(「りくぐん」と読みます・・・これも春秋時代の天子の軍を表現し、(晋楚などの大諸侯は、三軍でした)皇帝の軍旗を旌旗と言うのと同じです)が動かないので、奈何(いかんともする)なく最愛の楊貴妃に死を賜ることになります。
宛轉たる蛾眉(すなわち楊貴妃)は君王の馬前に死し、「馬嵬坡下泥土の中」の人になってしまいます。
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